真崎守についての論考をまとめていきます。
一、序文
ふとした機会に旧知の仲ではない人とまんが談義になり、話の流れで「どういうまんがが特に好きですか」と問われた時に「貴方は多分知らないと思うけれど、私は真崎守というまんが家の作品が好きです」と正直に答えると、当然ながら「真崎守という人は、どういうまんがを描いているのですか」と訊かれる。
そこで、真崎守というまんが家の(まんが史における)位置や影響、作品の特徴についてそれなりに言葉を尽くして説明することなるのだけれども、そうやって説明しながら、自分の心の中では「はたしてこんな(ウィキペディアの解説のような)通り一遍の説明で、真崎作品の魅力や、自分がそれにのめり込んでいる想いが伝わるのだろうか」「いや、絶対に伝わらないだろうなあ」という諦めに似た気持ちが頭をもたげて来る。簡潔に説明することが常に真実を突いているとは勿論言えないけれど、短文で解りやすく過不足なく説明することが出来ない自分の国語力不足が呪わしくさえ思う。
そもそも、自分が真崎作品の何に魅力を感じているのか、それが言語表現できる形で解っていないから説明に窮するのではないか。一体、真崎作品を面白いと思う時、自分の心の中では何が起こっているのか。
二、まんがを「面白い」と感じることとは
まんがの面白さとは何か、と問えば直ぐに以下のような声が聞こえてくるだろう。「面白いということを他の言葉で説明するのはナンセンスだ」「何が面白いかなんて読者各人それぞれで異なる、要するに好みの問題、それを普遍化しようなんて言葉の遊び、徒労に終わるよ」
たしかに、まんがに限らず面白いと思った作品のどこが面白かったのかを言葉にしようとする時、言葉を重ねれば重なるほど、本能的・本質的な感動から離れて行くような気が起きて虚しくなることがある。また「作品を読めば済むことを、あえて言葉で語ることに意味がない」という意見にも確かに一理あり、まんが評論というジャンルが(作品紹介やデータベースの部分を除いて)ほとんど全く市場(=読者)から望まれず定着していない事実がそれを証明している。
しかしながら、その基準は読者によって異なるものの、確実に「面白い作品」と「面白くない作品」は存在する。また、100人の読者のうち、70人が面白いと感じる作品と、10人しか面白いと感じない作品があるのも事実である。
人はどういう時に、まんがを読んで面白いと思うのか。まずはそのキーワードを思いつくまま挙げてみよう。(1)本能的な興奮や快楽、(2)欲望の代理達成、(3)自己体験に照らしての共感、(4)自己希求、(5)知的好奇心、(6)超常信仰、(7)恐怖趣味、(8)映像表現、(9)独占欲…他にもありそうだが、まずはこれらについて考える。
(1)
本能的な興奮や快楽…本能的刺激や快楽の疑似体験。スポーツ根性まんがやエロまんがが突出的代表例であるが、巧妙に変転するストーリー展開から得られる興奮も加えれば、優良なエンタテイメント作品の多くが当てはまる。また、人は同様に、難解な作品を読み解くことにも知的な快感を覚える。だから、推理・サスペンスものや「ライアーゲーム」(甲斐谷忍)のような知力ゲームに特化した作品が古えからの定番として在る。
(2) 欲望の代理達成…(1)と重なる部分が多いが、現実の自分が出来ない夢や願望の達成感の共有。サラリーマン出世物語や、モテない男の恋愛成就作品等々。(1)と併せて少年まんがの王道(売れ筋)要素であり、疑似空想世界を舞台にした冒険ものやSFも含む。
(3) 自己体験に照らしての共感…日常のささいな出来事から個人的大事件まで、人は皆、自己体験により笑い・喜び・悲しみ等の感情を積み重ねて行く。その様々な過去累積感情の反芻や追体験が読む者の心を動かす作品。
(4) 自己希求…「人は何故生きるのか」「自分は何を成せば良いのか」という自問は、古今東西を問わず人類のテーマとして常に我々の側にある(はずだ)。明確な答を示せなくても、その想いを共有できる作品。
(5) 知的好奇心…人は(それが実生活に役に立つかどうかに関係なく)知識を得ることに快楽を感じる。だから、単に知識や情報が提供される趣味的作品に、専門家や当事者でない読者が集まる。
(6) 超常信仰…人智を超えた超自然的な存在や現象に魅力や畏怖を感じることは、古来より人間の性としてあり、そのような人々にとって、自然神、物の怪、妖怪、異世界等はある種の憧れの対象と言え(まんがに限らず)様々な作品で取り上げられている。
(7) 恐怖趣味…人は何故か「怖いもの」が好きらしい。そういう刺激を欲する人は、怖い怖いと言いながら恐怖まんがを読まずにはいられない。
(8) 映像表現…映像は他の要素の表現手段として(1)~(7)全てに絡むが、それが突出しているだけで作品価値のほとんどを形成し得ることを、「童夢」(大友克洋)は証明して見せた。
(9) 独占欲…一部の人々は「自分だけのもの」を強く欲している。そういう人は、まだあまり注目されていない作家を見つけた時に過度に肩入れしたり、難解あるいは極めて個性的な作品に出逢った時に「これは自分のために描かれた作品だ」「これを面白いと思う自分はスゴいのだ」と思い込むことがある。「何かを拠り所にしたい」という点では宗教に似ている。
かなり大雑把な分類であり、これ以外にも要素があるとは思うが、人がまんがを面白く思うあるいは共感するパターンを列記してみた。
三、真崎守作品の場合
では、真崎守作品を読んで得られる面白さや共感は、前記9パターンのどれに当てはまるだろうか。
とは言っても面白さの感じ方は読む人それぞれであり、また、特に真崎守作品の場合、読んだ時の読者の年齢や時代、当時の体験等によって感じ方が異なる傾向にあるが、それでも、大くくりで言えば、前述9要素のうち(3)(4)の比重が高いという点に異論を唱える人は少ないと思う。むろん、個々の作品や年代によって差異はある。「白い伝説」「ゆきをんな」を含む「環妖の系譜」シリーズでは(6)がメインであるし、そもそも商業まんが家という立場から(1)を無視することなど出来ず大なり小なりその要素は多くの作品中に含まれているわけで、時にはそちら側に大きく軸足を置いた作品も描いている。
真崎守がまんが家として表舞台に登場した1960年代終わりから1970年代初頭、まんがは良い意味で、何でもありの混沌(カオス)状態の中にあった。「ガロ」や「COM」のような特殊な雑誌があっただけでなく、少年マガジン等の大手少年週刊誌にも、社会的・政治的・個人的な題材を扱った作品や、先鋭的表現による問題作が発表されていたし、ヤングコミックという青年誌では商業的な作品とマニアックな作品が違和感なく同載されていた。
そういう時代だからこそ、ある程度の娯楽性(知的興奮による快楽を含む)により読者を惹きつけるという行為と、社会的・自己希求的題材を同居させた作品を、メジャー雑誌で発表することが可能だったと言える(どちらが正しかったのか、という話とは関係なく、安部慎一作品には前者(娯楽性)の要素がなかったため、大ブームを起こすには至らなかった)
(話の軸が横道に逸れ、読者側から作者側に流れて来ているが、もう少しお付き合い願いたい)
四、「リアリズムと虚構」「表現と商売」の狭間で
まんがを描くということはある意味「仕事」であり「商売」である。むろん、ただ描くだけならそれは「趣味」であり得るが、それを雑誌に載せて売るという行為は商売そのものである。だから、好きな作品を自由に描きたいと願うまんが家に対し、出版側=商売人である編集者は「より多く売れるまんが」を描くことを要求する。真崎守もまた、そういう出版社の要求を完全に無視してはまんがを描けなかったわけで、売れるまんがの王道とも言える前述(1)(2)要素を、いかに取り入れるか(折り合いをつけるか)に腐心したのではなかろうか。
去る2012年11月18日に開催された真崎守図書館第一回トークライブ「真崎守の作品と、その時代」に、何と真崎守さん御本人が来られ、貴重で得難いお話を拝聴することが出来たが、「ジロがゆく」について下記のようなエピソードを語られた(記憶に頼って書いているので、実際の表現と若干の差異あり)
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当時「子供がボクシングで王者になるようなリアリティのない話は描けない。普通の中学生を描かせてくれ」と言ったら担当編集者が渋い顔をした。もちろん、ヒット作を出したい担当編集者としてはそれが正しい立場だったのだろう。
「じゃあ(そういう地味な話なら)週刊(少年マガジン)じゃなく別冊(少年マガジン)にしましょう」と編集者に言われ、自分もその方が気楽だからと引き受けた。
ある日、編集長がジロの原稿を持ってきて「これで1年間やりませんか」と言ってきたので、思わず「最初、これじゃ売れないっておたくの編集者は言ってたよ」と答えた。そうしたら編集長は「(大ヒット作だけでなく)こういうまんがも必要なんです」と言ってくれた。
自分が唯一、手塚治虫先生に勝てたのは「普通の、等身大の少年を描ける」ことで、手塚さんは何でも出来たがそれだけは出来なかった。
「ジロがゆく」が講談社出版文化賞児童まんが部門(第2回)でノミネートされていますと(出版社から)電話があった時に「(審査委員の)手塚治虫先生は何とおっしゃってますか」と訊いたら「“(手塚先生は)まだ若いし(受賞は)早いんじゃないか”と言っていました」と返ってきた。手塚さんが若手をけなすのはライバル視し嫉妬している証拠だから、内心“やった”と思い嬉しかった。
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「ジロがゆく」は別冊(実質的には月刊)という場所を得ることで、地味ながらリアリティのある物語設定を可能にした。もしかしたら、これが当時の作者にとって唯一の、純粋な意味での「少年まんが」だったのかもしれない(その点、週刊連載だった「ナガレ」「キバの紋章」では、売らんがための刺激的要素をいかに配するか、そのバランスに苦慮したのではと(当方の勝手な推測ながら)思わずにいられない)
(ここで再び、話を読者側に戻させて頂く)
五、鏡の効果(とりあえずのまとめ)
真崎守の作品は難解である、としばしば評されるのは、話の結末を明確に描かないこと(=2つの等価な視点の提示)と、過剰なまでの言葉による隠喩的表現や(それと背中合わせの)「語らずに表現する」ことが多いことによる。これは明らかに作者の意図する表現様式であり、それを「はっきりと描くに足る内容がないから、ぼかした話になるのだ」と批判する向き(例:「漫画主義」同人の一部)もいたが、それはまったくの見当違いであろう。あえて断言させてもらうが、ストーリィの結末、物語の結構などどうでもいいのだ。作者の最も言いたいこと、表現したいことはそんなことではない、最も表現したいことを強調するために、結末を描かない方が効果的だったというだけのことである。言い換えれば、複数の視点を用意することにより、逆に「見えてくる」のである。
2つの視点を目の前に突き付けられた時、人は自らを問い直さなければならない。この2つの現実を、どちらとも判断できない(あるいは、どちらかと判断したい)自分は何者なのかと。
「花と修羅」(原題・せくさんぶる)には、四人の主人公のうちの二人、しのぶと蛍の三つ子の姉妹、鏡子という女性が名前だけ登場する。
「今は昔、鏡子と名付けられた娘がいた」
「鏡子を問いかけても浮かび上がるのは」
「ただ、問いかける者の姿だけ」
鏡が映すのは「問いかける者の姿」である。読者は、真崎守作品を通して自らと対峙する。だから、自らのありようや考え方が十人十色なら、作品から得る「面白さ」も十人十色となる。そしてそれは当然ながら、同時代性の濃い作品ほど個体差が大きくなる。例えば「共犯幻想」は、原作者の斎藤次郎が1993年単行本あとがきで語ったように「挫折に終わった全共闘運動の負け惜しみでも、レクイエムでもない」のだろうけれど、それを認めない(認めたくない)読者がいても不思議ではない。
真崎守作品を読む快楽とは、まさしく、作品という鏡を通して「自らと対峙する」ことに尽きる。だからこそ、人間本来のありようが変わってしまわない限り、真崎守作品の価値と輝きも不滅なのだ。
●最中義裕(真崎守図書館・館長)